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高校を卒業した後、アメリカに留学しました。
地元の大学に入学し、同じ授業料で体育の時間もとれるということで、 Karateの授業をとりました。まだうまく英語が喋れず、友達も少なかったので、日本の文化に関係するクラスを取りたかった。ただそれだけでした。
日米貿易摩擦の頃で、ジャップという日本人を軽蔑した言葉が出始めた頃でした。日本の自動車メーカーが進出していた地域では、日本車が燃やされたりしていました。ジャップと呼ばれ、英語でうまく言い返すこともできず、悔しい思いをしていた頃でした。
Karateの授業ではもちろんアメリカ人だらけです。日本人は自分ひとりだけです。突きの稽古の時、順番に一から十まで数えて突きの稽古をします。みんな6辺りから発音がおかしくなります。6は「ロコッ」って聞こえます。7は「シシッ」と聞こえます。自分の番がくると、やはり日本人が「ロコッ」っておかしいよなーと思い流暢な日本語で一から十まで数えると、「おおっー」と歓声があがりました。またこのころは体がやけに柔らかかったので、股を180度開いたり、高い蹴りができたので、すぐにアメリカ人から一目置かれ仲良くなりました。これがきっかけで、英語もうまくなり、大学生活が楽しくなりました。結局会計学を専攻するのですが、まずは空手の稽古の時間を決めて、空いている時間に会計学のクラスを入れていくという、会計学専攻なのか空手が専攻なのかわからなくなっていました。
振り返ってみると、私の祖父は植芝盛平先生から直接合気道を学んでいたそうです。植芝先生も実家に宿泊したこともあるそうで。祖父は拓殖大学で、剣道・柔道・合気道・空手など合わせて十数段あったそうです。植芝先生の縁があってか、満州で私の祖母と結婚し、3人の子供をもうけたそうです。この3人の子供が私の母親なのです。戦後、帰国しますが、祖父は中国語・日本語が堪能だったため、ロシアの強制収容所で拘束され、10年後に帰国します。祖母が子供3人をつれて、満州から2年かけて帰国してくれたおかげで、私が生まれました。母親が満州に残されて残留孤児になっていたら、私は中国で生まれていたことでしょう。
祖父は、帰国後、合気道の道場を開いていたそうです。形見の袴が私の手元にあります。自分が知らないうちに武術にのめりこんでいったことに、縁があるように思えてなりません。
祖父は合気道でしたが、同じような武術の道を歩んでいければと思っています。
最近、祖父の手書きの履歴書がでてきました。履歴書ですが、武術歴が達筆な筆でかかれていました。昭和12年のころの履歴書です。
空手 2級
剣道 柳生流 4段
合気道 大東流 目録 (免許皆伝)
柔道 講道館流 初段
自分が今、XXX流空手 初段、XXX 初段、中国のXX拳が14年、XXX流柔術 四段です。いつか祖父においつければなぁと思いながら、日々研鑽しています。